
胡耀邦の息子である胡徳華は2025年3月30日の夜に病気で亡くなり、享年77歳でした。友人たちの間で、人々は次々と哀悼の意を表しましたが、私たちが知っているのは、胡徳華を偲ぶことは、実は胡耀邦に感謝しているからです。
1981年より、胡耀邦は300万件以上の冤罪事件を主導し、55万人の「問題分子」の名誉を回復しました。これらの事件の被害者は、ついに差別的な地位から脱し、平等な進学や就職の機会を得ました。
冤罪事件の再審は、彼一人の功績や力によるものではありませんが、彼は再審に最も貢献し、最も大胆で、最も決意が強く、最も公正な判決を下したことは紛れもない事実です。
もし胡耀邦がいなければ、多くの人がいつまで屈辱と抑圧の中で苦しむことになるのか、想像もできません。あの特殊な歴史的段階の指導者として、胡耀邦の歴史的功績は後世の人々が評価することになります。彼は完璧な人間でも聖人でもありませんでしたが、良い人であり、真の人でした。「人々の心に生きれば永遠に生きる。」
本日、短い文章を転載し、胡氏父子を偲びます。
CDTアーカイブカード
暇なときは、よく友人と話します。
話の話題は自然と多く、中国全土から集まりますが、ほとんどが有名人の逸話です。ある時、私は友人に尋ねました。「耀邦のことを覚えていますか?」
意外なことに、彼は私にこう尋ねました。「耀邦って誰?」
私はすぐに言葉を失い、何を言えばいいのかわかりませんでした。しかし、よく考えてみると、不思議ではありません。結局のところ、90年代以降の若者で、彼のことを覚えている人はそれほど多くないでしょう。
歴史は絶えず前進しています。
しかし、ある人、あることは、常に誰かが覚えています。胡耀邦は中国の改革に2つの画期的な功績がありました。1つは真理基準に関する議論であり、もう1つは冤罪事件の再審です。後世の人々は、胡耀邦の最も主要な功績は、第一に思想を解放し、第二に人々を解放したと評価しています。そして、思想と心身を解放された人々は、最終的に改革の主体となりました。
もちろん、この2つの大きなことを成し遂げるのは胡耀邦一人の功績ではありませんが、彼は最も貢献し、最もリスクを負い、最も大胆で、最も決意が強かったことは紛れもない事実です。
胡耀邦は「冤罪事件の再審」と同時に、「五類分子」を代表とする賤民階層をこっそりと廃止しました。中国の「五類分子」とその子供たちは、当時1億人を超えると推定されていました。胡耀邦のこの功績は、リンカーンが黒人奴隷を解放したことに劣りません。
中国のこの偉大な変革の中で、胡耀邦は悲劇の英雄でした。そして、悲劇の英雄は歴史の中でより深い痕跡を残すことは間違いありません。
ある人は死んだが、彼はまだ生きている。胡耀邦が残したこのデータは、永遠に歴史に刻まれるでしょう:1978年に45万人の「右派」を更正し、そのうち公職を失った27万人に公職を回復させ、再就職や生活の場を確保しました。同時に、「中右分子」と「反社会主義分子」に分類された31万5千人とその親族に対しても政策を実施しました。
「土地改革」後の「四類分子」(地主、富農、反革命分子、悪い分子)の帽子をすべて外し、その子供たちは地主、富農、反革命、悪い家庭の出身とは見なされなくなりました。これは、全国数千万人の市民とその1億人以上の親族が、もはや別冊に記載される「賤民」ではなくなったことを意味します。農村部だけでも、440万人以上が地主、富農の帽子を外されました。
全国の71万人の小商、小売り業者、小規模手工業者などの「労働者」としての身分を回復し、もはやブルジョワジーの商業業者とは見なされなくなりました。
資本家の差し押さえられた預金を返還し、減額された給与を回復し、補填し、占有されていた私有地を返還し、元の商業業者は政治的に幹部や労働者と同等に扱われました。
40万人の国民党蜂起者、投降者の政策を実施し、国民党の県団以下の党政軍特の人員を寛大に釈放し、台湾に渡った人々の中国本土の家族の政策を実施しました。
「61人の反逆者グループ事件」の冤罪を晴らし、ウランフ、「内人党」などの「地方民族主義分子」の帽子を外し、チベットの指導者である崔科・頓珠才仁、桑頗・才旺仁増、江措林・土登格桑、邦達多吉などの名誉を回復し、1959年のチベット「参叛」人員を寛大に扱い、公民権を回復し、政治的に差別を受けないようにしました。
「文化大革命」で「反革命罪」で死刑判決を受けた10402人、およびその他の重罪で死刑になった人々の再調査を組織し、冤罪や誤殺が非常に深刻なケースを発見し、是正、判決変更、名誉回復を行いました。
不完全な統計によると、1978年から1982年末までに、全国で合計300万人以上の幹部の冤罪事件が再審され、47万人以上の共産党員が党籍を回復し、数千万人の無実の連座した幹部と大衆が解放されました。
これほど大規模な混乱の是正と冤罪事件の再審は、社会各界との歴史的和解を実現し、国家の社会基盤をほぼ再構築しました。この勢い、この雰囲気は、春の雪解けのように、1949年以来蓄積された氷雪を春の水に変えました。
これらの驚くべき数字の中で、胡耀邦が更正しすぎたのではないかと疑問を呈する人もいます。これに対し、胡耀邦はすぐに反問しました。「最初に逮捕したとき、なぜ多すぎると言わなかったのか?」
故新華社高級記者の戴煌は次のように書いています。
1994年、『炎黄春秋』誌の社長である杜導正は私に胡耀邦について書くように依頼し、テーマは「胡耀邦と冤罪事件の再審」と決まっており、私は快諾しました。
1995年11月、耀邦の生誕80周年、『炎黄春秋』は私が書いた一部を掲載し、その後、『南方週末』など数十の新聞も転載しました。
しかし、本を出すのは非常に困難でした。まず、私と本の出版契約を結んだのは人民出版社でしたが、彼らは原稿をほぼ編集した後、自らこの契約を破棄しました。その後、中央党校出版社の社長と編集者も私のところに来て、私は原稿を彼らに渡しました。数十万字の原稿を彼らは3日で編集しましたが、その後、出版社の社長は私に、しばらく出版できない、私の原稿を彼らのところに置いておく、などと言いました。いつまで待てばいいのでしょうか?そこで私は中央党校出版社に本稿を取りに行きましたが、彼らは非常に惜しんでいました。
本稿は次に新華出版社に送られました。この出版社を手伝っていた退職した女性の孫維熙は、すでに退職していた新華社元副社長の馮健に見てくれるように頼みました。馮健は徹夜で見て、大喜びし、非常に良いので、新華出版社にすぐに発行するように勧めました。
このような状況下で、香港鏡報の創設者であり、全国政治協商会議委員である徐四民先生は、どのようなルートで私の本稿を知ったのか。彼は1997年の春に北京で全国政治協商会議に出席し、北京飯店西側の貴賓楼に滞在し、私に電話をかけてきて、本稿を彼に渡し、香港に持って行って出版してもらうことを希望するかどうか尋ねました。もちろん私は喜んで承諾しました。
その年の9月には初版が出版され、北京新華書店の内部書店でも販売されました。本の価格は1冊88香港ドルで、中国本土に流通して販売されると、1冊150元以上になり、なんと飛ぶように売れました。
いずれにせよ、胡耀邦は中国現代史において避けて通れない人物です。そして、『胡耀邦と冤罪事件の再審』は、現代中国の歴史的プロセスにおける波乱万丈で、息をのむような断面を真実に記録しており、胡耀邦の生涯で最も忘れられない、感動的な歳月を鮮やかに再現しています。
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